75 厚狭高等学校と毛利勅子 2014年7月

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    徳山藩主毛利広鎮の7番目の姫として生まれた毛利勅子(ときこ)は、書・和歌・琴・華道・茶道をたしなみ、長刀や馬術も身につけた文武両道に通じる女性でした。20 歳で厚狭毛利家の領主毛利元美の妻となり、やがて明治維新を迎えます。女は「無知なるが賢きなり」という教育観が根強い中、女子教育の重要性を主張していた勅子は、明治6年(1873年) 55 歳のとき、当時の船木区長・兼重慎一と協力し、県内で最初の女学校「船木女児小学」を開校しました。船木の民家の長屋を校舎として児童7 人から始めた学校は、初代訓導(校長)となった勅子の熱心な指導もあり、年々児童数が増えて、地域で自慢の女学校と言われるまでになりました。60 歳のとき教壇で倒れ、翌年の明治12 年(1879年)に帰らぬ人となりました。その後、学校は徳基学舎と名を変え、改編を繰り返し現在の厚狭高等学校となります。

  写真の毛利家の家紋が入った美しい書見台は、勅子が兼重区長に贈ったもので、愛用の三味線や琴、筆蹟、肖像画などとともに、勅子が晩年をささげ,その礎を作った厚狭高等学校で大切に保管されています。

 

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